1968年生まれ
1992年東京大学農学部卒
入会するにあたり、どんな考え方の人間が運営しているのかは、多少なりとも関心のあることではないかと思います。以下に一部私の考え方について列挙致します。あくまで自分の体験に基づく私見でございます。皆様のお子様に対して押し付けるつもりは決してございませんのでご安心ください。
算数について:
体育が、「体」を「育」む教科であるならば、
算数は、「脳」を「育」む教科であると考えております。
鉄棒や縄跳びといった機材が体を鍛える道具であるように、数や図形は「考える力(=知能)」を鍛える道具だと考えております。
入学試験において算数の比重が高い理由は、表面的に計算等の知的作業能力を見たいからではなく、算数を通じて「考える力」を考査したいからだと考えております。
算数を勉強することは、単に合格を勝ち取る手段であるだけでなく、その鍛錬を通じてお子様の考える力を伸ばす好機だと考えております。
受験について:
将来の職業についての選択肢を多く確保しておくためには、一定水準の学力を保っておくことは有力な手段です。
そのために、受験というハードルを設定し、今という時間と情熱と労力を注ぎ込むことは、非常に有益な自己への先行投資と言えます。
志望校への合格という結果も大事ですが、それを獲得する過程を通じて、自らを鍛錬するという「修行」の経験もまた同様に大切な成果物だと考えております。
桐蔭学園の思い出:
私は、桐蔭学園を中学受験しました。
2月1日の入試当日は、雪がちらつく本当に寒い日でした。
入学するとレッスンクラスはβ(ベータ)クラスからのスタートでした。
α1(アルファワン)クラスの常連の人たちからは、結構からかわれていました。
桐蔭学園での要領がわからない間は、γ(ガンマ)クラスに落ちたりもしました。
このままでは生きて行けない。
成績が悪いことが原因で、ふとそう感じる出来事がありました。
2年生から3年生の間、1年がかりでα1クラスに這い上がりました。
受験直前、数学は絶好調で高校は理数科もチャレンジしましたが、結果は普通科合格でした。冷静に振り返ると、やはりα1でなかった2年間の差が埋め切れていなかったとわかりました。(スタートからなるべく上位にいた方が良い、というのはこの実体験で痛感したことのフィードバックです。)
普通科でしたが、桐蔭学園高校では、「桐蔭の活用の仕方」はよくわかっていましたので、しっかり対応しました。
高校入試を経て桐蔭に入学した外部進学生の同級生は極めて優秀な(地元中学で学年No.1の子たちが来てました。)洗練された方が多かったのですが、それだけに、桐蔭独特のごつごつした実力主義カルチャー※に合わなかった方もまた多かった気がします。
桐蔭学園においては、試験は試合だと思いました。さぼる者は容赦なく叩き落とされ、周到な用意をした者には、レッスンクラスの上昇やハイレベルの授業が与えられる。そこで更になりふり構わず先生に食いついて行って、恥も外聞もなくレッスンアップを狙ってこそ、真価を発揮してくれる学校だと思いました。
※ 鵜川昇理事長は、かつて高校生に対し、桐蔭に「修学旅行」が無い理由を「受験という大事な戦いを控えた君たちに、物見遊山は要らない!」と説明していました。学園トップがこのような戦闘的な考えで教育していたことは、今ではとても懐かしく思い出されます。今思えば、学園理事長というよりも機動部隊司令長官のような迫力があった気がします。
東大生について:
確かに、イメージ通りの、本当に人間離れした秀才が、一定比率で居ます。
例えば、一読すれば教科書を全て覚えてしまう記憶力を持っていたり、特殊な暗算方法を発明してしまうような種類の人々です。
しかし、東大生といえども、大半は普通の人々です。
ノートや字が汚い人もいました。
留年してしまう人も沢山いました。
車の運転中、内輪差を忘れこすったりもしてました。
では、何が違うのでしょうか?
統計分析しておりませんので私的な印象でしかありませんが、
ほぼ全員、集中力が人並み外れていました。
天賦の才がなくとも、「一所懸命に努力する力」で入学したのだと思います。
東大に入ることは、普通の人が努力次第で達成できることだと思います。
東大を目指すことは、スポーツや音楽の特殊な才能がない人や、未だ人生の目標を決定したくない人には、自分を磨く良い目標設定だと考えております。